2012年10月23日火曜日

私の3.11


あの日、娘の卒業式でした。たまたま金曜日でお手伝いの先生が来てくれていたので、休みをもらって卒業式にでていました。おそらく、後にも先にも今回だけだろうなあと感激しながら式を終え、家でゆっくりしてもいいはずだったんですが、なんとなく家族を置いて職場に戻ったのが13時。休むはずだった午後の回診を終え、事務室で話をしていたところ突然、事務員の携帯がけたたましく鳴りました。「えー、地震だって・・・」と言われるや否やあの時間。私が座っていた椅子にはすぐ隣にあった大きなFAXが倒れかけていました。
そこからはもう必死。続く余震の中、患者さん、職員の無事を確認、入院患者さんと職員をすべて一階のロビーに集め、とにかく落ち着くまで励ましあいながら、施設の被害を確認。建物そのものはほぼ大丈夫で電気も通っていましたが、水道及び下水の配管は断裂しており、電話もほとんどつながらない状態でした。夜になってとりあえず、患者さんを病室に戻し、できるだけ通常の体制にとしましたが、とにかくいつ余震が襲ってくるかわからず、一歩も病院から出られない状況になりました。
その間、なんとかメールなどで家族と連絡は取れましたが、長男を迎えに行くとのメールがあったっきり一切連絡が途絶えました。ニュースでは渋滞している道路に大津波が押し寄せ、多数の方々が呑み込まれたと伝えており、もしや・・・の気持ちを抱えながらも病院の見回りを繰り返しておりました。結局、再び家族と連絡が取れたのは5時間後でした。
翌日には原発の状態が深刻と伝えられ始めました。メルトダウンしているかどうかなどは分りません。しかし言えることはとにかく外に出るなということ。ちょうど土日だったため、家族全員に一歩も外出禁止と言い渡し、私は病院での勤務を続けていました。3月14日。帰れないでいた大学の先生を何とか帰すことに成功し、夜は自宅に帰りました。夜通し原発関連のニュースを見ながらまんじりともできずに横になっていました。15日になり原発はいよいよ深刻に。家に閉じこもっていた息子、娘をとりあえず病院に連れてきて家族一緒にいられるように。依然水道、下水にはめどが立たず、食事もサトウのご飯だけ。夜には妻も合流し、一家4人で医局で過ごしました。その間も刻々と状況は悪化。最悪核爆発というニュースも流れ出しました。私は何度も妻に子供たちを連れて東京に避難するように話しました。しかし妻は一歩も福島から出たことのない人間、とても心細くて3人ではいけないと拒否され、また子供たちも家族全員じゃないといやだという意見でした。翌16日にはさらに状況は悪化、私も安心して仕事するためにも、家族だけは安全なところにいて欲しい、時間を見つけては会いに行くからと説得し家族を送り出したのが9時30分。その1時間後にはいわき市の環境放射線値は最高値を記録したのでした。
とにかくどうすれば良かったか、今でも答えはありません。結果的には避難まではしなくても良かったのかもしれません。しかし、政府、東電、保安院はどう説明しようと放射能が外に出たのは事実。メルトダウンもあるなあと考えながら、自分の判断でマスクをさせ、自分の判断で外出禁止とし、自分の判断で避難させました。また帰ってくるときも最悪の状況のことは考えながらも家族全員で相談し、いわき市での生活を続けるように決めました。結果はどうあれ、結局家族全員で暮らそうというのが我が家の結論でした。
まだまだ原発は落ち着いていないようで、またまた避難ということもなくはない様子。いまだに避難用グッズは段ボールに入ってます。もうあんな思いをしなくて済むよう、東電さん、菅さん、よろしくお願いしますね!

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